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昨日夜に、先日てっきり「どこかで落としたに違いない!」と思っていた自分で作ったシュシュを、自宅の部屋の、何でこんなところに置いたんだろう、と自分でも首を傾げる場所で発見した。ので本日からまたシュシュが私の目が届かない、頭の後ろの髪を結ったあたりに鎮座している。(そう、だからいるのかいないのかいつもよくわからないのだ)

このシュシュは、本当にずっと「ここ」にいたのだろうか。それとも誰か、もしくは何か、が「ここ」まで運んでくれた、もしくは「ここ」へわざわざ何かわからない方法によって粒子を集結しなおして再構築したりしてくれたのではないだろうかと楽しく想像しまくって、それらの全てのものに会釈する様に心の中でお礼を言っている。おかげで助かりました。ありがとう。

一度失くしたと思っていたものが、どんな形であるにせよ自分の手元に急に戻ってくることは、それが「とてつもなく大事なもの」という訳でもないのにうれしい。

まあ、私が「ここ」に、適当に放り投げていたのかもしれなくても、その「ここ」に適当に放り投げた私に対しても、ほんのちょっとだけ、ありがとう。

写真は本日買い物途中に見た水仙。

本日はおとなりさんのご出産祝い今更、を購入しにお出かけ。

自分もほしいと思えるものを購入できたことにとても満足した。
(お金を払ってくれたのは旦那なんだけど、二人からのプレゼントだから一緒に選べてよかったな、と思う)

プレゼントって、選ぶの難しいよな、とつくづく思うけど、自分もほしいと思える、それでいて、普段自分ではなかなか購入に踏み切れないようなちょっと素敵なもの(ここが個人差があって一番難しいんだけど…)がいいなあ、と改めて今後も今日のような感じを心がけようって感じた。

春節、という事で本日休みだった旦那とともに中華街へ行ってきた。

とはいっても特に街の様子がいつもと変わっている訳では無い感じだった。もっとなんか、春節〜!って感じになってるのかなーとすごく期待してしまっていたことに、行ってみて初めて気がついた。

よく歩いた1日だった。

本日はほぼお外へ出ず。
ねことベランダへ出て洗濯物を干しながら日向ぼっこをしたりした。


写真は昨日のねこ。

白菜が高い。
少し前までこんなに高くもなかったのに。
でも今白菜をキムチ風の浅漬けの素で漬けることが私の中ではやっているので、今日も白菜を買った。

白菜を刻んで塩をして30分寝かしてから、その素を混ぜ込むだけの簡単浅漬けだ。フルーティでとてもさっぱりしたキムチっぽい何かが出来上がる。漬けたまま何日か置けばもっと味がしみておいしい。



柚子ジャムとゆず茶の違いを最近知った。
柚子ジャムは加熱して作る。
ゆず茶は加熱せず、砂糖と柚子の皮や果肉を重ねて重ねて最低でも何週間か寝かす。その間何度か混ぜたりして、1ヶ月以上たった方が美味しいらしく、さらに一年もすればトロトロのゆず茶が出来上がるらしい。
もし、ゆずが大量に手に入ったら作ってみたいな、と思っている。ゆずの木を買って植えた方が早いかもしれない笑

しかし今は、カルディで安売りしていた韓国製の500gのものを買ってきて使っている。(←加熱していない、と聞くと、なるほどそう言われてみれば皮の噛み心地が加熱されていない硬さである。とてもおいしい)


写真は白菜を買ってきた帰り道に見た葉牡丹。

病院にいる。
私が二週間入院していた時、暇な時間を持て余していつも運動がてら階段をのぼってきていた屋上にいる。今日は途中までエレベーターでのぼり、その後1階分だけ自分の足でのぼった。もしかしたら、入院中の方が体力があったかもしれない、と、このごろ運動不足気味な自分に対して考えた。
少しベンチに座って休んだ。病院の中を歩くと上着を着ていなくても暖かかったので上着を脱いでいたのだが、屋上はさすがに吹きっさらしで寒いだろうと思い、外へ出るドアを開ける前に上着を着ていた。それにもかかわらず、やはりかなり風が冷たい。天気は晴れ。自分の濃い影が屋上の緑色の地面にくっきりと浮かぶ。

そう言えばあの時はあと少しで夏だったからこんなに寒くはなかったんだった。


今も、あと少ししたら少しずつ暖かくなる。

待っても待たなくても、季節はめぐって先にすすんでいってしまうから、どうにか追いつかないといけない。

本日は買い物以外お出かけせず。


買い物に行った時に走ったので、髪の毛に巻き付けていた自分で作ったシュシュを落とした、と思ったんだけど、もしかしたら最初からシュシュなんてつけていなかったかもしれないし、さらにさらにもしかしたら最初からあのシュシュは私の手から作り上げられてなんかいなかったのかもしれない。

なんてことを考えながら今夜は寝ようと思っている。

三駅分歩いた。
坂道を普通に歩いただけですぐに息が切れる。
こんなにも体力がない、という事を気がつくには体力を使うことをしなければならない、ということは分かっているのに息が続かない。
少しずつ、という言い訳をしてあと延ばしにすることを心苦しく感じるけれども、少しずつしか体力や気力が戻らないことが辛い。
習慣になるまでやり続けないといけないんだろうなということはわかるのに、すぐに怠ける私が腹立たしい。

そんな時はできることだけやって、寝て、リセット。
結局、出来ることしか出来ないけど、毎日少しずつそれを伸ばしていけたらもっと長く息が続くようになっていくのだろうと思う。

寝よう。
おやすみなさい。

普段は避けて通る大通りを、それが一番近いから、という理由でひたすらまっすぐ歩いた。

写真は途中で撮った枯れたススキ。
美しかった。



父からもらった券で遅いお昼ご飯を食べた。
このごろ胃袋が拡張していて、少し足りない気がしたのだけど、時間を置くとちょうどよくなってくる。






私はいつも何を急いでいるのだろう。
私はいつも何を躊躇しているのだろう。
私はいつも、どうしてこんなにもとどまり続けているのだろう。
これは、ここに、とかそういった意味でなく、戸惑っているまま全く進んでいない私の中身に対しての話だ。

本日は、旦那を会社に送ったあと、ふらりとドライブに出かけた。

本当にとてもふらりと走りだしたため、行き先は特に決まっていなかった。
何となく昔よく走った道を進んでいったのだけど、途中で左折したくなり左折。その後は全くの気分に任せて走った。
どれくらい走ったか、交差点に近づいた時にふと看板に目が止まった。寒川神社駐車場。あ、この辺りに寒川神社があるのか、と、中央分離帯を挟んだ右手に見えたその駐車場を見て思い、急遽右車線に移動し、右折してみた。こちらに神社があるとは限らなかったけれど、大きな駐車場が右側にあるのだからきっとこちらに神社があるのではないかと感じた。


神社だろうなと思われる囲われた場所を目にして、私は少し安心した。
つい先程急に行こうと決めたその神社だった。

八方除御守を旦那と私の分買って帰路についた。
今の私にはとても合っている神社だった。私が欲していたからきっと、神様が導いてくれたのかも知れない、とさえ感じた。

多分、そういうことってあるんだろうな。

境内のすっきりとした広場に心が洗われるような気持ちだった。
その中を、きめ細かい砂をやさしく撫でているかのように静かに歩いた。私の心の中の水をこぼさないことに集中しているかのように、そしてそんな私が境内の中の空気を乱してしまったりしないように。









メモ:神社内は犬の散歩禁止の札がいくつもあって、そういう御札はよその場所では注目して見たことなかったな、と思った。
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